石ノ森作品の通奏低音〓島村ジョーの自称変化についての一考察〓
2015-09-28


この構図は作品が進行するに従って強化されていく。「ローレライの歌」のラストにおいてジョーが語った言葉が象徴的だ。「ぼくは……はんぶん機械かもしれない!」「でも……だからこそふつうの人間よりは正しい答えをだせるのだと信じている!」しかしこの言葉は復讐に狂ったローレライ母娘には通じることはなかった。また、ジョー自身もその優等生的でイノセンスな思考がローレライ母娘には通じなかったことに、強い無力感を感じている。ジョーの言葉は、心までも人ならぬものとなってしまった自分の、虚しい正当化のようにも響く。生身の人間の妄執や憎悪には、ジョーの理性は通用しない。そしてそれこそが「黒い幽霊団」の本質であるとすれば、彼らの戦いは永遠に続かざるを得ない。その「黒い幽霊団」は、人類を武力の独占によって経済的、軍事的に支配しようとしている。恐怖支配による自由の弾圧は、石ノ森作品の「悪」の本質と言える。
 この構図は後に「人造人間キカイダー」によって変奏される。この作品のラスト、ジローは不完全な良心回路「ジェミニィ」にプラスして、服従回路「イエッサー」を取り付けられ、それによって「人間と同じ」になったと語る。この時ジローはそれまでの「ぼく」という自称を「おれ」と変える。ここは明らかにジローの人格変化を表現している部分だ。「人造人間キカイダー The Animation」とその続編「キカイダー01 The Animation」では、この自称変化が表現されていなかった。あれほど原作をみごとにアレンジした作品の、これは痛恨の失策だと思う。服従回路「イエッサー」を悪の表象としていることから、石ノ森の悪に対する概念の一端が伺える。自由意志と自己判断を放棄し、他者の権威や判断に身を委ね、自己の苦悩や判断を放棄するのが「服従」であり、それは個人の自由の放棄である。石ノ森の語る「悪」は決して単純な二元論ではなく、人間の自由を奪う存在である。この点を把握していないままで論者が石ノ森を論じるのは、あまりに浅薄だと言わざるを得ない。そして、「人間と同じ」になったジローが幸せになれないことは作品のラストが暗示している。永遠に自由を守るために戦い続ける、これこそが自由の代償である。「善」も「悪」も地獄道。この荒涼とした世界観が石ノ森作品の底辺に流れる通奏低音である。
 キカイダーはイナズマンという超人によって服従回路「イエッサー」を焼き切られるが、それは「人造人間キカイダー」という作品世界から逸脱した世界であり、その後ジローは姿をあらわすことがない。この時点でジローは「永遠の戦い」からリタイアしてしまった。それは「人類の自由のために闘う」はずだったTV版の仮面ライダーがいつの間にか「正義のために闘う」存在と化して、原作から逸脱していきつつ生き続ける(そして「生身の人間」のものとなった)こととの照応という点で興味深い(もっとも「仮面ライダーウィザード」の最終回で、この部分に対して痛烈な批判が行われているが)。
 石ノ森作品は冷戦時代の世界観に基づいていて、すでに時代的意味は失われているという論も少なからず目にするが、明らかにそれは皮相な見方に過ぎない。石ノ森は冷戦時代という「大きな物語」を、意識の有無にかかわらずメタファーとしてとらえ、その視点は人間存在そのものに向けられていたと考えられる。人間にとって闘争の意味はなにか、何が人間を闘争に向かわせるのか、何が人間を闘争から開放するのか、それが彼の終生のテーマであった。その意味で石ノ森は当初から「人間の物語」を希求し続けたのだろう。多くのまだまだ未熟でナイーブなマンガジャーナリズムやサブカルチャー論証のなかで、石ノ森作品は未消化のまま放置されていると思う。まさに「生身の人間」の視点でしか評されていない氏の作品を、そろそろ「異形の視点」で見直す時期が来てもいいのではないだろうか。

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