石ノ森作品の通奏低音〓島村ジョーの自称変化についての一考察〓
2015-09-28


サイボーグ009において、島村ジョーの自称の変化については、ほとんどの論考がそれを無視しているように思える。
 島村ジョーの登場は久里浜少年鑑別所の脱走シーンである。これ以前に島村ジョーは登場していないし、この作品が初めて世に出たのは、現在の単行本で冒頭に置かれている001から008までの拉致・改造シーンではなく、この脱走シーンであることはよく知られている。それは絵柄の違いからも歴然としている。
 最初に登場した島村ジョーの自称は「おれ」である。これは改造手術のための麻酔を受ける直前まで使われている。
 ところが、改造手術が終わり、島村ジョーがサイボーグ009として生まれ変わった瞬間から、彼の自称は「ぼく」(または肩下華のボク)に変わる。001に覚醒させられ、巨大ロボットに襲われた直後、天井に張り付いて攻撃を逃れた瞬間から自称が変化する。これはおそらく連載第2回であるから、単に自称が連載の変わり目で変わったと考えることも不可能ではないが、発表しが『週刊少年キング』という週刊誌であることからして、連載原稿作成の感覚がかなり短いことを考えると、やはり意図的な変更であると見るのが妥当だろう。
 少年まんがとして「おれ」という自称が教育的に問題があるという判断で変更された可能性もなしとはしないし、当時の少年まんがの主人公の自称をチェックして、そのような配慮があったのかどうかを確認することは現時点ではできていない。しかし後の少年まんがの男性主人公の自称として「おれ」はさほど珍しくないことから考えて、そのような配慮から「ぼく」へと自称が変化したとは考えにくい。ここは島村ジョーが改造手術を受けた結果、キャラクター造形上の人格が変化したと考えるべきだろう。もちろん生身のころの自称から考えて、紳士的ないしは高次の精神活動が開始されていると判断できる。
 そして、彼の自称は後のシリーズ、「アステカ篇」において、テラクトラマカスキの影響下に置かれ、精神的退行という状況下で感情暴走をした時でさえ変化することがない。
 以上のことから考えて、島村ジョーは改造手術を受けることで、人格的にも大きな成長をし、それは終生持続したと考えられる。冒頭部分に暗示された、仲間を気遣う優しさ、そして麻酔直前に強く抗う姿に象徴される自由への渇望は、改造後の島村ジョーにとってより全面に押し出されることとなる。もちろんそのバックに、改造されたことで得た力と、仲間の存在によって保たれる孤独からの開放、そして母性としてのフランソワーズの存在があることは言うまでもない。
 ここで、改造手術を一種のメタファーとして展開してみると、石ノ森作品に通底する要素が見いだせる。サイボーグとなることで、人間から排除される結果となった島村ジョーは、さまざまなエピソードの中で人間との断絶と直面することになる。最も初期のエピソードとしては「オーロラ作戦」(秋田書店版では「新ナチス」)がある。このストーリーのラストで、妻を新兵器に酔って失った男とその娘が再開する際、親子は「機械」を憎んでいたと語り、「半機械人間」であるジョーたちとの断絶は決定的なものとなる。この場合「機械」は殺戮をもたらす絶対悪のメタファーであり、それを「黒い幽霊団」によって体に移植されたサイボーグであるジョーは「絶対悪」によって汚された、忌むべき存在として指弾されてしまう。しかし、「機械」=「悪」というあまりに単純な善悪二元論は、「機械」=「悪」を体内に埋め込まれながら、その「悪」と決別し、敵対しようとするジョーたちにとって、あまりに皮相的認識ではないか。ここにサイボーグとして覚醒した島村ジョーと、生身の人間との大きな断絶の実相があると考えられる。改造されたジョーにとって、生身の頃に囚われていた皮相な二元論的世界観は相対化されてしまっていると考えてもおかしくはないだろう。

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