「体育嫌い」
2022-10-10


「体育嫌い」。私は筋金入りの「体育嫌い」だ。

 「国語」も死ぬほど嫌いだった。

 「地理」も嫌い。これは「地理」という教科の意味を把握できなかった私の浅はかさが原因。「数学」は嫌いではないが苦手だった。サボったからだ。

 だからといってスポーツが(決して上手ではないが)すべて嫌いなわけではない。山に登るのも、歩くのも、自転車に乗るのも、そんなに苦にはならない。自分一人で、誰にもああだこうだ言われないのなら、運動することは決して嫌いではない。

 最近自分でも気づいたのだが、嫌いなのは「体育」ではなく、そこにすくっている「スポーツ界」である。いまだに旧弊なマチズムから抜け出せず、持つべき資質もない連中がたまたま他人に勝ったからというだけで異常な権力を持ち、暴力的で恣意的な権威を振るう。そんな体質を否定しきれない。そんなものにおもねるのはまっぴらゴメンだ。

 「国語」も似たようなもの。「日本」文学に特化した価値観と現実離れした夢幻のような価値観(いまだに「磯野家」が標準家庭だと思っている連中もいるのではないか?)で世の中を捉えている。川端は素晴らしい日本語でノーベル賞を取り、世界に日本文学を認めさせたなどと悦に入っているが、勘違いも甚だしい。ノーベル文学賞の受賞基準に「英訳されていること」という条件があるのをご存じない方が多い。日本語で「何を描いて」いるのかが重要なのに、道具にばかりこだわっているのが鼻につく。「源氏物語」は世界文学として高い名声を誇っているが、あれを世界中の人が、我々ですらおぼつかない「古文」で読まないと、正しい評価ができないというのなら、「源氏物語」の名声は返上すべきだ。

 もちろん、体育にせよ国語にせよ、そんなこまった人ばかりが教育していないことはよくわかっている。だが、こまった連中を打ち壊せていないことも事実だ。今、持久走の評価をタイムと心拍数変化の両面で行うようなことはどれぐらい一般的に行われているのだろうか(そういう先生に出会ったことが一度だけある)。文学を国語で扱う比率が下がると懸念されているが、では、現代社会ときっちり切り結ぶような、テクノロジーや世界の問題ときっちり組み合った作品を満載した「文学」教科書がどれほどあるだろうか(いまだにSF小説はクズだという先生がいると言う。カズオ・イシグロはその人にとってクズだし、それを評価したノーベル賞もクズ、その賞を取った川端や大江もクズだと豪語できそうな人がそう言えばかつていたような…)。
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